第五章 忍びの洞察力
第五章では、人の見極め方、相手の正体、人間の本質などが主なテーマだ。
嘘をつくときは眼が大きくなる
形相見ようの事。言うは怒るに色赤きは勇相なり。青きは怯えの者なり。また眼大なるは偽りを言い、常に歯の身ゆるは貧相なり。下唇平生食いしめたるは、人の心をため見る相なり。 『当流奪口忍之巻註』
形相によりはんだんすること。怒っているときに顔色が赤いのは勇相である。青いのは怯えている者である。また眼が大きいときは嘘を言っていて、常に歯が見えるのは貧相である。下唇をいつも噛みしめているのは、人の心をじっと見る相である。
これは「嘘をつくときは眼が大きくなる」に記してある文章だ。
ここに書いてあるのは相手の心理の見極め方であるが、この分を見る限り、昔の人も今の人もあまり変わらない印象を受ける。
今の人たちも、怒れば顔が赤くなるものだし、怯えていれば青くなるものだ。
文明は進化しているが、人の本質はあまり変わっていないのだろう。
ということはつまり、昔の人間に関する本を見ても、現代人に通用するということだ。
価値観は違うが、一度昔の本を訳したものを見るのもいいかもしれない。
一日戦いについて話をすれば、三日心が強くなる
また「一日戦いについて話をすれば、三日心が強くなる」では、『当流奪口忍之巻註』から引用している文がある。
剛臆者は物語を知るべき事。言うは一日兵を講ずれば、三日心剛なりと云いて、常に勇を好む拙などは、心の剛なる方なり。弱なることを云うは弱き方なり。かくのごとく計るに大方は遠わざるものなり。 『当流奪口忍之巻註』
剛勇か臆病かは話す内容にて知ることができる。「一日戦いについて話をすれば、三日心が強くなる」といって、常に武勇を好む話をする者は心が強い者である。弱いことを言う者は心が弱い者である。このように考えておけば、だいたいは正しいものである。
ここには、「戦いの話をする人が多いほど、心が強い」というような内容になっているが、自分は違う印象を受けた。
「戦いの話をする人が多いほど、心が強い」のではなく、「戦いの話が多ければ、心が強くなる」と思ったのだ。
それはつまり、その人の心が弱くても、戦いの話をしていけば心が強くなれるということになる。
もちろん、個人差はあるだろうし、反対に戦いの話をしていくほど、戦いに対する恐怖が強くなる人もいる。
しかし、人間には慣れがある。
今はできないことがあっても、時間がたってコツを理解し、それに慣れていけばたいていのことはできるものだ。
この文章は「心の強いものと弱いものの考えをみれば、だいたいは正しいもの」ということを伝えているが、違う考えをすれば「弱くても、慣れれば強くなれる」ということを学び取れる。
外見や職業で判断しすぎると痛い目に合う
貴賤無二の心を持つの事。言うは貴賤の二つは形は変われども、七情の気の備わるところ、二つはなし。例えば寒暑の平等なるがごとし。 『当流奪口忍之巻註』
貴賤変わらぬ心を持つこと。貴賤の二つは形が違っていても、七情(喜・怒・哀・楽・愛・悪・欲)が備わっていることに変わりはない。例えば、寒暑は誰にとっても平等であるようなものである。
これは、見出しの通り、「人間の外見」と「人間の内面」のことだ。
先ほどの「嘘をつくときは眼が大きくなる」で説明したが、文明は進化していても人間の本質はそこまで進化していない。
それは、表情の作り方ではなく、人の外見に対する評価でも同じことが言える。
我々は優しそうな顔つきをみれば「優しい人だろう」と判断し、無表情の人を見れば「何だか怖い人だ」と判断する。
しかし、人には必ず感情や感覚があるのだ。
「忍者はすごかった 忍術書81の謎を解く」から引用するなら「七情」になる。
優しそうな人にも「怒」「悪」「欲」があるし、無表情に人にも喜怒哀楽があるのだ。
それを私たちは「優しそうな人だから悪いことはしないだろう」「無表情だから恐ろしいことでも企んでいるのだろう」と考えてしまう。
それは、昔の人、忍びにも同じだったようだ。
忍びは人を本当の意味で見極めるのも仕事だが、やはり外見で判断してしまった忍びもいたのだろう。
その結果、違った情報を聞いたり、拷問にかけられたりしてしまうのだ。
他にも、人を外見で判断するデメリットはたくさんある。
「第二章 忍びのコミュニケーション」でも説明した通り、忍びはいろいろな人と交流を深める必要があった。
それは、自分の成長の向上と情報収集の二つの目的があったのだと思われる。
しかし、人を見かけや職業で判断すると、「裕福な人は信用する」「貧乏な人は信用しない」というふうに考えが煽ってしまう。
そうなると、自分の成長の妨げになることはもちろん、情報収集のときでも、無意識に「裕福な人の情報は信用し、貧乏な人の情報は信用しない」というふうになってしまうのだ。
だからこそ、昔の本『当流奪口忍之巻註』にも「人を外見で判断するな」と記しているのだろう。
第六章 忍びの精神
忍びの心を常に持ち続ける
平世の心、忍びにもつべき事。言うは人たるもの、平世諸事に忍ぶをいう。 『当流奪口忍之巻註』
忍びは平常心を保っていなければならない。それは、いつ何時であっても忍ぶ心が大事だということである。
これは、忍びの仕事を確実にこなすために残された文章だろう。
忍びは一般人から情報収集することもあるが、敵からも情報収集をしていた。
その敵から情報を盗もうとする場合、敵の話す小さなことから重要なことを上手く聞き出していたはずだ。
それは、「第一章 忍びの情報学」の「相手をほめて気持ちよくさせる」にも記載されている。
「第三章 忍びと禁欲」の「酒、淫乱、縛打で敵を利用する」を見る限り、忍びは敵との信頼関係を築いてから、敵に酒を飲ませ、情報を盗んでいた可能性が高い。
そのため、情報収集するときはお互いに酒を飲んでいただろうが、人から重要なことを聞きだそうとするときは、どうしても顔に出てしまう場合もある。
あるいは、忍びがいきなり話を振られて、挙動不審になるかもしれない。
現代で例えると、会社の上司がとんでもない勘違いをしているときに、ついつい笑いそうになってしまうことだろうか。
あるいは、嫌いな人から「一緒に酒を飲まないか?」と誘われたときに、それが表情に表れることなのかもしれない。
現代では、命に関わることが少なく、気持ちが悟られても流してくれるものなので表情に出てしまっても問題ないが、忍びは敵と会話をしているのだ。
忍びが忍びと敵にバレてしまったら、それこそ拷問にかけられたり、情報を吐くようにされてしまう。
だからこそ、敵に自分が忍びと悟られないように、冷静さの大切さが記してあるのだろう。
大きな仕事が得意な者、小さな仕事に向く者
選む事。忍びの者の性質に、大業をよくする者あり。小業を得し者あり。その生得を選みわけて遣う事。總司の肝要なり。不得意なる事をなさしむべからず。 『用間加條伝目口義』
選ぶこと。忍びの者の性格として、大きな仕事を成し遂げる者がいる一方、小さな仕事が得意な者もいる。その生まれながらの性質を分けて遣わすことが、上に立つ者にとっては重要である。不得意なことをさせてはならない。
昔から、上の人間は他の人より才能があり、下の人間は才能がないと見られている。
しかし、上の人間は上の仕事の才能があるだけなのだ。
それは、コミュニケーション能力だったり、人を見極める能力のことだろう。
もちろん、下の人間と言われている人にも、上の人間とは違う才能を持っている。
手先の器用さ、頭の回転の速さ、身体能力の高さ、物づくりの才能のことだ。
忍びで例えるなら、
- 塀を登る能力
- 人とすぐに親密になれる能力
- 足の速さ、道具の使い方
- 敵から早く逃げる能力
- 敵に見つかったときのごまかし方
- 音を立てずに歩ける能力
など、あげればキリがないが、それぞれ他の長所、短所があるのが人間というものだ。
それを上の人間は理解し、それぞれ才能を生かせる場所に配置することが上の人間の責任だと、この文章に記してある。
個人の長所、短所を上の人間が理解していれば、お互いにそれぞれの長所を認めることができるため、内部での争いも抑えられたのだろう。
それができない上の人間は、その組織内での差別も極端になってしまい、情報も上手くまとまらなかった可能性が高い。
忍術書を読んでも忍術は習得できない
凡そ忍びの習い千変万化有りといえども、伝えの以ておしゆるに足らず。大事とする所の一つは、常に国々所々を能く知る。其の地に望んでは、人の心さじを能くさとり、其の応ずる処を用いて勤めるとならん。志此の道に叶い、道理至極するに於いては、無門の一関を通り得たるも、心智の明らかなるが故なり。 『正忍記』
およそ忍びの術は千変万化であるが、伝えて数えきれるものではない。大事なことの一つに、常に国々所々をよく知るというものがある。ある地に赴くときには、そこの人の志をよくわきまえ、それに応じた術により対応する必要がある。志がこの道に叶い、術の道理が一体となるならば、目に見えない人の心の門を通ることができるが、それは心智が明らかだからである。
ここには、「忍術は多くあるが、伝えて数えきれない」というようなことが記されている。
更に、このページには以下のものを記載されている。
忍術書は概要を書いたものであり、しばしば「口伝」と記されていて、重要な部分は師から弟子に身をもって伝授されました。
例えば、体の使い方である体術については、忍術書にはほとんど記されていません。
この通り、忍術は書に記されて残っているものは以外に少なく、大概の忍術は師から弟子へと受け継がれていた。
確かに、体術に関しては、本を読むよりも実際に教えたほうが早く学べ、確実性も高い。
「敵に手首を捕まれたときの逃げ方」というものがあったのなら、自分で手首を掴んで学ぶよりも、訓練相手か年上の忍びに手首をつかませてもらって学んだほうが、習得しやすいだろう。
忍びは書を読んで学ぶことだけではなく、他の忍びを見て学ぶことも重要だったのだ。
現代に、忍びの体術の詳しい使い方が存在しないのは残念だが、体術であればそれは仕方のない話だ。
もし、忍びの遺伝が今でも続いているなら、現代でもその遺伝を持つ日本人が存在するのかもしれない。
あるいは、無意識に忍びの体術をしている人もいるだろう。